年   内容
1886年東京に生まれる。
1905年東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。
1913年フランスに渡り、モディリアーニ、スーチン、ピカソ、キスリングらを知る。
1917年フェルナンド・バレーと結婚する。シェロン画廊と契約、水彩画を納めて毎月収入を得る。シェロン画廊で最初の個展を開く。
1919年サロン・ドートンヌの会員に推挙される。
1920年乳白のなめらかな地塗りキャンバスに面相筆などを用いた日本画的描線を活かした独自の技法を確立。1921年サロン・ドードンヌ審査委員となり、エコール・ド・パリの有力作家となる。
1925年サロン・デ・チュイルリーに版画を出品する。
1926年1924年に制作された「友情」をフランス政府が購入、リュックサンブール美術館に収蔵する。1927年 ルーヴル美術館が藤田嗣治の腐食銅版画の原板を収蔵する。
1929年日本に一時帰国。東京で盛大な藤田嗣治展を開催し、大成功を収める。20年代中頃から版画制作を開始。銅版画作品「猫十態」「子供十態」を制作。
1931年ブラジルに向けて旅立つ。リオ・デ・ジャネイロで藤田嗣治展を開催。
1934年中南米旅行中に制作した作品を中心に、銀座で藤田嗣治展を開催。
1936年堀内君代さんと結婚。藤田嗣治随筆集「腕一本」を刊行する。
1937年平野政吉氏の要請で、大壁画「秋田年中行事太平三吉神社祭礼の図」を制作する。描き始めて174時間で完成させる。
1939年君代夫人とともに横浜からアメリカ経由でフランスに発つ。
1940年帰国。トレードマークのおかっぱ頭を切る。
1942年戦争記録画作成のため、陸軍省は藤田嗣治、川端龍子ら16名の洋画家、日本画家を戦地へ派遣することを決定する。
1949年「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く世界的水準になってください」という言葉を残して、羽田空港から渡米する。
1951年藤田嗣治65歳の誕生日を記念して銅版画「魅せられし河」を制作。
1955年フランス国籍を取得し、正式にパリ市民となる。日本では京橋のブリヂストン美術館で「藤田嗣治作品特別展示」が開催される。
1957年レジオン・ドヌール四等勲章を贈られる。
1959年ランスの大聖堂で藤田嗣治夫妻ともどもカトリックの洗礼を受ける。藤田嗣治はレオナール、夫人はマリー=アンジュ=クレールと改名する。レオナール・フジタとしての第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈する。
1963年日本橋三越での第2回「国際形象展」に出品する。リトグラフ(石版画)「四十雀」を制作。
1966年2月末から礼拝堂の建設が始まり、6月に完成する。その後フレスコ画の制作にとりかかり、8月31日完成し「ノートル=ダム・ド・ラペ(平和の聖母)」と命名される。 1968年藤田嗣治、チューリッヒの病院で死去。日本政府より勲一等瑞宝章を追贈される。