年 |
内容 |
1883年 |
モーリス・ユトリロ、パリ18区ポトー通り8番地で生まれる。母、マリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン(シュザンヌ)、父、不明。 |
1891年 |
私生児だったユトリロを、ジャーナリスト、ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスがモーリス・ヴァラドンを息子として認知する。(以後、彼は戸籍にモーリス・ユトリロと記載される) |
1897年 |
オベルヴィリエの小学校を優秀な成績で卒業する。 |
1898年 |
コレージュ・ロランに入学するが、中退、職を転々とする。 |
1901年 |
アルコール中毒のため、パリのサン=タンヌ病院に入院する。4ヶ月後、モンマニーの家に移り、最初はデッサンから、その後本格的に絵を描き始める。 |
1904-08年 モンマニー時代 |
1904年 |
パリのサン=タンヌ精神病院に入院する。5月14日、退院する。6月、最初の入院の後絵画に興味をいだく。 |
1905年 |
特にモンマニーとパリのセーヌ河岸を描く。 |
1908年 |
印象派(シスレー、ピサロ)の影響を受け、糊や砂とともに石灰石やセメントを黒、ジンクホワイト、イエローオーカー、ウルトラマリン、マッダレーキといった限られた絵の具に混ぜてマチエールを創る。 |
1909年 |
サロン・ドートンヌに「ポン・ノートル・ダム」を出品。 |
1910-14年 白の時代 |
1912年 |
サノワのルヴェルテガ博士の病院に入院する。以後、入退院を繰り返しながらも作品を描き続ける。1913年この頃、ユトリロは作品に最も暖かく最も豊かな色を、色調を変化させて使っている。すでに「色彩の時代」が始まっていた。 |
1914年 |
ホテル・ドゥルオーでの競売会でユトリロの作品が初めて高値で売れる。 |
1920-55年 色彩の時代 |
1921年 |
ギャルリー・ベルト・ヴェイユでの個展(モーリス・ユトリロ展)開催以来数多くの画廊で絵が展示される。 |
1925年 |
ユトリロはセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエダンのために舞台装飾をする。1928年8月1日、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章と教育功労勲章を授与される。 |
1935年 |
モーリス・ユトリロとリュシー・ヴァロールは民法上の結婚式をあげる。 |
1937年 |
ポール・ペトリデスがユトリロの作品を扱う画商になる。 |
1947年 |
フランシス・カルコの「過ぎし日のモンマルトル」(モンマルトル・ベキュ)のために、22枚のカラーリトグラフ(石版画)を制作。 |
1955年 |
アンドレ・モロワの「パリ・キャピタル」のために10枚のリトグラフ(石版画)を制作。パリ市から金メダルを授与される。テルトル広場で、サシャ・ギトリィ監督の映画『もしパリが私に物語っていたなら』に出演する。モーリス・ユトリロは療養で訪れたダックスで死去。 |